恩師の思い出
- 2019/10/23
- 08:52
小学校4~6年の時に担任だった先生のお名前がお悔やみ欄に。(山梨の地元紙には、亡くなられた方の通夜・告別式が、希望により掲載出来ます)
私達の学年が最後の受持ちで、翌年からは愛宕山のこどもの国の管理人になられたので、中学になってからも同級生何人かで、愛宕山のこどもの国に先生に会いに行ったりした記憶がある。
教頭や校長なんかは、「子供といっしょにいれないからつまらない」と言っていた。
(何年かして千塚小の校長になっていた)
行くと、大抵は作業着を着て、小さい子供達と遊んでいた。
授業中に当時のモンスターペアレンツが怒鳴り込んで来た事があったが、それが教室間違いで、大声で「それは4組だ!!」(私達は1組)と、先生が怒鳴り返して、大爆笑だった。
ちょっと、悪い子がふさげ過ぎて、「授業が聞けないなら帰れ!!」と言ったら、クラスの半分以上が教室から出て行って仕舞った時は、残った子達に明日のテストの答えを教えてくれた「がまんすると良いことがあるのを教えるのも先生の仕事だ」と言っていた。
陸上で国体に出た事もある先生で、おじさんなのに運動神経が良く、ドッヂボールなんかでは、常に本気モードだった。
スケート教室では、こどもそっちのけで一人で、スピードスケートで滑ってた。
給食の時間には先生の席で給食を食べていて、NHKのドラマをみんなで見ていた。先生は食後にタバコを一服(大らかな時代だった)
いつも差し棒をもっていて、悪い事をするとふとももの裏を一回ピシっ!!と叩く、本気で怒る怖い先生だった。
親に全寮制の中学にいれられそうになって、運悪く合格したけれど、激しく抵抗した結果行かないで済むようになったと報告したら、ニヤッと笑って「良かったな」と一言。
夏休みの読書感想文で賞を取った事がなかったので、6年の時に推薦図書の後書きを丸写し、しかし賢い私は、後書きの構成の順序を巧みに入替え、小学生らしく言葉を変え、時々誤字脱字をし提出したら見事入選した。
給食中に「山本!先生にに読ませてくれよ」と読んでいる最中に、先生が「ブッ!!」と牛乳を吹きだし、唯一賞が取れた読書感想文の原稿は、牛乳臭くなった。
なぜ、先生が吹きだしたのか判らないが、「悪い悪い」と言っていた。
当時、お前たちが大人になる頃には、中国がものすごく成長している、英語もいいが中国語を話せるようになっておけと言われたが、私は未だに両方話せない。
中学からは科目毎に教師が異なるが、先生は小学校高学年からそうした方がいいという持論があり、教育委員会に掛け合って、実験的に理科と何かの科目を専門の教員にしてくれて、特に理科は充実した授業だった記憶がある。
大人になって仕事を始めた時には、町内会の会長をして、うちを法事なんかで使ってくれたこともある。
20年位ぶりだったが、あんまり変わってなくて驚いた。
イメージでは。いつも奥さんが編んでくれたという、ブルーのセーターを着ていた気がする(夏は着てなかったのだろうが)
お悔やみ欄を見ると90歳と書いてある。
ということは、私が小6の時は52・3歳だったことになる。
今の自分とそんなに変わらない。
正直、頭は白髪で薄かったので、もっとおじいさんかと思っていた。
厳しい先生ほど記憶に残るもの。
先生の弟さんたちが数年前に、兄貴もボケて来たので、生前葬を山本さんちでやりたい、兄貴はもう判らないだろうけどと言ってくれたが、当時は既に昼の営業を辞めてしまっていたので、お気持ちだけいただいたのが、少し悔やまれる(仕方ないのだけれど)
合掌。
私達の学年が最後の受持ちで、翌年からは愛宕山のこどもの国の管理人になられたので、中学になってからも同級生何人かで、愛宕山のこどもの国に先生に会いに行ったりした記憶がある。
教頭や校長なんかは、「子供といっしょにいれないからつまらない」と言っていた。
(何年かして千塚小の校長になっていた)
行くと、大抵は作業着を着て、小さい子供達と遊んでいた。
授業中に当時のモンスターペアレンツが怒鳴り込んで来た事があったが、それが教室間違いで、大声で「それは4組だ!!」(私達は1組)と、先生が怒鳴り返して、大爆笑だった。
ちょっと、悪い子がふさげ過ぎて、「授業が聞けないなら帰れ!!」と言ったら、クラスの半分以上が教室から出て行って仕舞った時は、残った子達に明日のテストの答えを教えてくれた「がまんすると良いことがあるのを教えるのも先生の仕事だ」と言っていた。
陸上で国体に出た事もある先生で、おじさんなのに運動神経が良く、ドッヂボールなんかでは、常に本気モードだった。
スケート教室では、こどもそっちのけで一人で、スピードスケートで滑ってた。
給食の時間には先生の席で給食を食べていて、NHKのドラマをみんなで見ていた。先生は食後にタバコを一服(大らかな時代だった)
いつも差し棒をもっていて、悪い事をするとふとももの裏を一回ピシっ!!と叩く、本気で怒る怖い先生だった。
親に全寮制の中学にいれられそうになって、運悪く合格したけれど、激しく抵抗した結果行かないで済むようになったと報告したら、ニヤッと笑って「良かったな」と一言。
夏休みの読書感想文で賞を取った事がなかったので、6年の時に推薦図書の後書きを丸写し、しかし賢い私は、後書きの構成の順序を巧みに入替え、小学生らしく言葉を変え、時々誤字脱字をし提出したら見事入選した。
給食中に「山本!先生にに読ませてくれよ」と読んでいる最中に、先生が「ブッ!!」と牛乳を吹きだし、唯一賞が取れた読書感想文の原稿は、牛乳臭くなった。
なぜ、先生が吹きだしたのか判らないが、「悪い悪い」と言っていた。
当時、お前たちが大人になる頃には、中国がものすごく成長している、英語もいいが中国語を話せるようになっておけと言われたが、私は未だに両方話せない。
中学からは科目毎に教師が異なるが、先生は小学校高学年からそうした方がいいという持論があり、教育委員会に掛け合って、実験的に理科と何かの科目を専門の教員にしてくれて、特に理科は充実した授業だった記憶がある。
大人になって仕事を始めた時には、町内会の会長をして、うちを法事なんかで使ってくれたこともある。
20年位ぶりだったが、あんまり変わってなくて驚いた。
イメージでは。いつも奥さんが編んでくれたという、ブルーのセーターを着ていた気がする(夏は着てなかったのだろうが)
お悔やみ欄を見ると90歳と書いてある。
ということは、私が小6の時は52・3歳だったことになる。
今の自分とそんなに変わらない。
正直、頭は白髪で薄かったので、もっとおじいさんかと思っていた。
厳しい先生ほど記憶に残るもの。
先生の弟さんたちが数年前に、兄貴もボケて来たので、生前葬を山本さんちでやりたい、兄貴はもう判らないだろうけどと言ってくれたが、当時は既に昼の営業を辞めてしまっていたので、お気持ちだけいただいたのが、少し悔やまれる(仕方ないのだけれど)
合掌。